【摂津市】木下勘兵衛の石碑を見に行きました。「摂津市の歴史」
ご無沙汰してました【摂津市の歴史】です。
今回は摂津市三島にあります木下勘兵衛の石碑を見に行きました。
木下勘兵衛のお話をする前に、馬場崎 右衛門正義(以後正義)のお話をする必要があります。
正義は明善寺(三島2丁目)の4代目であり、武勇・知謀に優れ、本願寺側の軍師として活躍した人だと言われています。織田信長が、本願寺との和睦が成立した天正8年の夏に、本願寺の教如の檄文に呼応した正義を討伐するために、3千騎を明善寺のある味舌に向かわせました。それを知った正義は、止々呂美村(箕面市)に逃げ延びたのですが、そこで家臣であるの木下勘兵衛が、正義の身代わりとなって戦い、討ち死にしたと言われています。後に難を逃れた正義は味舌に戻ります。これらを知った本願寺の教如は、木下家に本尊を贈ったそうです。
平成8年に、「木下勘兵衛討ち死にの由来」を記した石碑と五輪塔を建立しました。
因みに教如は、本願寺が東西に分裂する原因となった人物として知られています。
場所はこの辺り↓