東京の「有楽町」の由来は摂津市に住んでいた織田信長の実弟だった?
以前、【摂津市の歴史】織田信長の甥が造営した味舌天満宮という記事を書かせていただきましたが、今回は信長の甥の父にあたる長益(ながます)についてのお話です。
※Wikipediaより
当時、摂津国島下郡味舌(ました)に二千石を領していました。
今の摂津市正雀辺りですね〜
長益は千利休から茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられるほどの腕を持っていたようです。
(お茶の世界では「腕」とは表現しないかも?-汗-)
そして、名を有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後には自ら茶道有楽流を創始しました。
世は戦国時代・・・
本能寺の変、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いという歴史的に名を残す戦を生き延びてきました。
やがて、大坂冬の陣の後となる1615年4月、大阪城を退去し徳川家康に御目見しました。
そして、1615年の今日! 8月12日に、長益の五男である尚長に一万石を分与しました。
(なんてタイムリー)
長益、つまり有楽斎(うらくさい)は、隠居料の一万石を手元に残して、摂津市を去り京都へ。
そこで茶室を作りました。
その後、茶人有楽斎として名をはせ、江戸に屋敷を拝領していたとか。
後に屋敷跡は有楽原(うらくはら)と呼ばれていました。
明治時代に入り、有楽原は有楽町(ゆうらくちょう)と名付けられました。
つまり、
現在の有楽町の地名は、織田有楽斎(おだうらくさい)に由来するわけですね!
・織田信長の弟、織田有楽斎
・江戸の屋敷跡を有楽町と名付けられる
・有楽斎と号した頃は摂津市に住んでいた。
関係が繋がりましたね!
追伸:
織田長益(有楽斎)の五男の尚長は、1615年の今日(8月12日)に、一万石を分与されて、後に味舌天満宮を造営したんですよ!
歴史は面白いですね〜
《つよし》